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【まち紹介】藤沢市鵠沼海岸ー別荘文化の息づくまち
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春一番が吹き、長い冬も終わりを迎告げようとしています。
これから暖かい季節の訪れ、湘南も活気を帯びてきます。
『湘南』といえば、このまち
鵠沼海岸についてご紹介します。
鵠沼海岸の場所
鵠沼海岸は藤沢市の南側、海に面した町です。
おおまかにいうと引地川の東側から小田急江ノ島線の間に位置します。
藤沢市は全体的には郊外型のベッドタウンの強い町ですが、エリアごとに背負ってきた歴史はかなり異なります。
北部は古代より農業が盛んなエリアで、今も若い農家が活躍しています。
近年は、ITを活用したスマート農業と呼ばれる開発が進むなど、農業ベンチャーの地としても注目されています。
中部は中世より旧東海道の交通の要所で今と変わらず商業の中心地でした。
南部の沿岸地域は砂丘地帯のため作物があまり採れず半農半漁の村だったようです。
しかし、明治時代以降、鵠沼海岸一帯の沿岸地域は変貌します。
別荘地としてのあゆみ
結核療養には海水浴が適しているとドイツ人医師ベルツ博士による提言により、鎌倉や大磯に海水浴場が開設され、海岸地域には皇族や政治家、事業家などの別荘が建てられました。
鵠沼一帯(現在の鵠沼松が岡、江ノ電沿線と小田急江ノ島線の間)は大給子爵により先買いされ、天皇家の御用邸の候補地として挙げられていました。
結局、御用邸は葉山に決定したため、大給子爵は松が岡の広大な土地を分譲し、別荘地として一大開発していきます。
分譲といっても、当初は1区画3000坪という広大な区画として売りに出されていたそうです。
いまでもその当初の松林や玉石垣などを垣間見ることができます。
ただし砂地であるため、防砂目的のため土地購入者は松を植え、一面松原に生まれ変わったそうです。
数年かけて土地改良を行い、広大な敷地に別荘が建築されていきました。
大磯や鎌倉エリアは、個別に別荘が建築されていったのに対し、鵠沼は別荘地としてエリア的に開発されていったのが大きな特徴です。
別荘利用者の強い要望により明治30年には江ノ電が開通し、鵠沼駅からまっすぐ海に向かう道も整備されました。
別荘地から定住化へ
当初は別荘地として開発されましたが、鵠沼は他のエリアとは違い割と早い段階で定住化が進みました。
理由は、結核への向き合い方の違いだと言われています。
明治時代は結核は死の病として大変恐れられていましたが、ベルツ博士の提言により、湘南エリアには海水浴場が設置され、療養所(サナトリウム)が多数建てられました。
昭和初期の海水浴の様子(引地川河口付近)
しかし、鵠沼には療養所は一つも建築されませんでした。
理由は感染してからの療養目的ではなく”予防”目的で居住していたからだと言われています。
男性は東京で仕事をこなし、妻と子供は結核に感染しないために鵠沼に住まわせるケースが多かったようです。
そのため、別荘地に住む子弟が通う学校が建築されました。それが現在の湘南学園です。
関東大震災や戦災により、被害の大きかった東京や横浜から鵠沼の別荘地に居住拠点を完全に移すケースが急増し、住宅地の範囲も松が岡一帯から引地川方面や片瀬海岸方面へ広がっていきました。
文化人の集まるまちへ
今も変わらず、鵠沼が賑わうのは夏の海水浴の時期でした。
それ以外は閑散期で、旅館の宿代も安かったそうです。
そこで、東京に拠点を持っていた文豪たちは夏以外の閑散期には鵠沼にやってきて、生活費を抑えながら、海辺の環境のよい場所で執筆活動に励みました。
その旅館で有名なのが、戦時中まで経営していた「旅館東屋」です。
志賀直哉や武者小路実篤などはこの旅館東屋で白樺派を結成したと言われています。
昭和期には芥川龍之介など著名な文豪が集まり、サロン的な場所になっていたようです。
戦後のアメリカ文化も受け入れて
戦後、進駐軍により神奈川県内では焼け残ったRC造の建物や洋風の住宅を中心に接収された建物が数多くありました。
鵠沼も例外ではありませんでした。
厚木基地や横須賀基地に進駐した米軍人は休暇となると交通の便のよい鵠沼にやってきて、サーフィンなどのマリンスポーツを楽しんでいたそうです。
その様子を見ていた若者が見様見真似で板に乗り始めたのが、日本のサーフィンの発祥だと言われています。
戦後の新しいアメリカ文化と別荘地由来の松林や竹垣、玉石垣などがのこる町の風景。
ふたつが衝突することなく共存しているのが、鵠沼海岸の魅力だと思います。
◆参考文献◆
鵠沼海岸商店街振興組合発行 「鵠沼海岸商店街 120年の歴史」2015
鵠沼郷土資料展示室運営委員会「鵠沼郷土資料展示室たより(10周年記念特集)」2016年
前田忠厚氏発行「まちの記憶」2018